品目紹介
金沢おでんや鰤だいこんなどに使われる源助だいこんは
ひとりの農家によってつくられ、地域で守り継がれてきました。
青首だいこんにとって代わられた歴史を経て
今や、金沢の冬に欠かせない野菜として愛されています。
源助だいこんを生み出したのは、松本さんの祖父、故・松本佐一郎さんです。その始まりは昭和7年ごろ。当時、松本さんの畑がある打木地区のだいこんは、収穫率があまりよくありませんでした。そこで佐一郎さんは、愛知県の井上源助さんというだいこん生産者が作った品種を持ち帰り、打木地区で栽培していた練馬系のだいこんとを毎年掛け合わせ、固定選抜を重ねます。そして、とうとう10年後の昭和17年、源助だいこんを完成させました。 従来のだいこんに比べて収穫率もよく病気にも強い源助だいこんは、その後打木地区を中心に石川県各地で作られるようになり、昭和35年には、取扱高が3000トンと、一大産地になったのです。 しかし、源助だいこんにはスが入りやすいという問題がありました。種苗会社が病気に強い青首の総太だいこんを作ると、その勢力が石川県も席捲してゆきます。生産者もひとり減り、ふたり減り…と、平成7~8年ごろには、松本家だけになってしまったそうです。 「当時はただの地野菜でした。でも、平成9年に加賀野菜としてブランド化されたことで、作りたいという人が増えてきたんです。そうはいっても源助は揃いも悪いしスも入りやすいもんで、育てやすい青首系のだいこんも作りながら」と、当時を振り返る松本さん。 現在生産者は19名。打木地区全体で年間2万ケース以上を出荷しています。
暑さに弱い源助だいこんは、種を播くのは8月20日ごろ。露地栽培の場合は、遅蒔きでも9月10日ごろまでが限界で、10月20日ごろから収穫が始まります。現在は、打木地区の生産者全員で計画的に種を播く時期を決め、収穫時期をずらして出荷できるようにしているそうです。 とはいうものの一年を通しての出荷を狙っているのではありません。 「量を作ってたくさんの人に食べてもらいたいと思うけれど、長く出荷し続けようとは考えていないから。一年中ある野菜ではなく、寒くなる時期になったら出てくる、金沢の季節を感じる“旬のもの”として食べてもらいたいんや」松本さんは語ります。 「作る人が増えたといっても、青首系より育てづらいのは事実。気象条件によっては収穫率がガタンと落ちる。水管理も難しい上に雨が降ると割れやすいし、在来種やから形や大きさが揃いにくいんや。その時期その時期にどんな作業をするか、肥料をやる時期や回数、収穫のタイミングをどうするか。天気を見ながらいろいろ考えんといかん。自分でもまだまだやけど、要は技術とセンスとタイミングやね」
以前は生産者個人でそれぞれ種を採っていましたが、今は金沢市と農協、生産者でいいものを選抜して種を採っています。 「いいものというのは、長さ・太さといった規格だけではなく、肌の質感や掘り出して割ってみてスが入っていないもの。いいものは、交雑しないように種専用の圃場に植える。1年寝かせて次の年に蒔く。こうやって、産地全体でいいものを残していかないかん」。 後継者になる若い生産者には、個々に産地として技術を伝え、全体的な底上げを図っているという、大根部会の源助だいこん部長でもある、松本さん。 「20代の子たちは、同じものを作っても楽しくないからと、自分の畑の一部で源助を作ってみたりしとる。手間がかかるから“作った感”もあるし、一部やからリスクも少ない。意欲的やね。部会の会合なんて、その時期には大根の話しかせんもん」。 そんな話をしていると、松本さんの父、農の匠の惲(ルビ:あつし)さんが言葉を継いでくれました。 「昔は幻のだいこんと言われた時期もあったけど、親父が育成したものなので、守り続けてほしい。わしも青首だいこんも作ってきたけれど、源助だいこんだけは、少なくても作り続けてきてよかった」。 三代目に引き継がれた源助だいこんは、きっと次の世代、その次の世代へ仲間を増やしながら引き継がれていくはずです。
Contact us