品目紹介

加賀太きゅうり
松本 惲さん

『作ってみたら案外楽やった。
でも、種を守り続けるのは大変や。』

きゅうりやトマトなど、ほかの作物を作っていた若かりし頃の農の匠が
加賀太きゅうりに出会ったのは、約40年前。
毎年毎年、種を守り、育ててきました。
農の匠の歩みは、そのまま加賀太きゅうりの歴史でもあります。

黒墨の土から砂地へ 名人と種がやってきた

 海岸線に隣接する打木地区。海から強い風が吹くと表面が巻き上がるような、褐色の砂地。松本惲さんの畑は、ここにあります。 「このあたりは砂地やから、水の心配はまったくないんや」。砂地は乾くのでは?という疑問に答えるように、「昭和38年の一次構造改革で、地区全体にスプリンクラーが導入されたから」と。早い時期から打木地区では水の設備が整っていたのです。  加賀太きゅうり発祥の地は、今では住宅地の広がる久安周辺だと言われています。打木に加賀太きゅうりがやってきたのは、昭和45年ごろ。市街化する久安で作っていた米林利栄(ルビ:としえ)さんが、打木に新しい農地を求めてきたのが始まりではないかと言われています。  久安は、肥沃で保水力のある黒墨の土地。砂地の打木とは条件が違います。しかし、今では砂地で育つ加賀太きゅうりが、高い評価を受けています。これは、スプリンクラーの恩恵はもちろんですが、持ち込んだ米林さん、それを受け継ぎ広げてきた松本さんをはじめとする打木の生産者たちの努力の結晶なのでしょう。

交配と戦い、種を選び 固定種を守り継ぐ

松本さんと加賀太きゅうりの出会いは、米林さんから種をもらったことが始まりでした。 昭和48年にガラスの温室を建てて、普通のきゅうりを作っとった。昭和52、53年ごろやったか…種を分けてもろうて作ってみたら、収穫が楽で。ふつうのきゅうりは毎日収穫せんと大きくなりすぎるけど、太きゅうりは大きくせんなんから」。 収穫は楽だったけれど、やがて壁にぶつかりました。 「固定種は、揃わんのや」。 伝統野菜は、一律に同じようなものを作るために改良されたF1品種とは異なり、太さや長さ、色もまちまち。 種をまき、育ち具合を見ながら色や形、実のつまりが良いものを種用に選抜。それを毎年繰り返すことで、固定種である伝統野菜は守り続けられます。ほかの品種との交配も防がなければなりません。当初は、生産者それぞれで種を採っていたのですが、ただでさえ揃いづらい固定種。個々で種を採るとますますバラつきが生じました。そこで、採種のための共同圃場を作りました。生産者が持ち回りで種を守り、今のように色や形や味の安定した加賀太きゅうりを出荷できるようになったのです。 「明日花が開きそうなものを洗濯ばさみでとめて印をつけて交配しとる。あ、そうや。ときどき苦いのかあるやろ。あれは実が付いたころ、リンゴを食べながら苦味を確認して取り除くんや」。固定種を守り継ぐだけではなく、よりおいしいものを作るために。

時代と共に変わること 変えてはいけないこと

「最初はあんまり興味なかった。接ぎ木したかどうかも覚えとらん」。40年前に加賀太きゅうりを作り始めたころのことを聞くと、松本さんは笑いながら言いますが、畑で実をつけ始めたきゅうりを見る目は愛情にあふれています。 「昔のほうが甘みがあったなぁ」子どもの成長を眩しげに眺めている親のよう。40年前と比べると小さくなったような気もする、と。甘みが少なくなったのはそのあたりも関係しているのでしょう。以前はM・Lサイズが中心だったのが、今の主力は、S~Mサイズ。核家族化や買い物・生活スタイルの変化により、伝統野菜の大きさも変わってきました。好まれる味も違ってくるかもしれません。 しかし、松本さんたちが40年間守り続けてきた「種」は、この先もずっと守り継がれていくはずです。 「打木の太きゅうりの生産者12軒、全員後継者がおるよ」。 松本さんが誇らしげに、うなずきながら教えてくれました。

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